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369 山尾幸久は、裏面では百済王が東晋皇帝を奉じている[3]ことから、369年に東晋の朝廷工房で造られた原七支刀があり、百済が372年正月に東晋に朝貢して、同年6月には東晋から百済王に原七支刀が下賜されると、百済では同年にこれを模造して倭王に贈ったとの解釈を行っている[4][2]。また、当時の東晋では、道教が流行しており、七支刀の形態と、その百兵を避けることができるとする呪術力の思想があったとする[5][2][6]。
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375 古代、三国に分かれていた朝鮮半島においては、それぞれ各個に仏教が公伝された。最も北にあり、中国に近かった高句麗へは早くも372年、小獣林王の時代に前秦から伝えられたとされる。375年には肖門寺・伊弗蘭寺などが建立された。
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倭と盟友関係となる百済では、これより若干遅れて、384年に枕流王が東晋から高僧の摩羅難陀を招来し、392年には阿莘王(阿華王)が仏教を信仰せよとの命を国内に布告している。ただし、百済国内に本格的に仏教が普及するのはそれより1世紀ほど遅れた6世紀初頭である。
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残る新羅においては上記2国よりも遅れ、5世紀始めごろに高句麗から伝えられたという。法興王の時代に公認された後は、南朝梁との交流もあり、国家主導の仏教振興策がとられるようになっていた。
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391年 高句麗の広開土王(好太王
471年 辛亥の年七月
稲荷山古墳(埼玉さきたま】「鉄剣 表に 辛亥と 1983年に国宝に
古墳群は1968年ごろ発見
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538 仏教公来継体天皇没後から欽明天皇の時代に百済の聖王により伝えられた
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5406世紀半ばになると、欽明天皇元年(540年)が渡来人である秦人・漢人に戸籍の編集をさせたという記録がある[3]。この時に使われた紙は郷戸が作成したとされており、秦人が日本で紙を作ったと推測されている[3]。一方、これと相前後して宣化天皇3年(538年)[注 2]に仏教が伝来し、この際に百済の製紙技術が持ち込まれたと考えられている[3]。
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593 厩戸の皇子(聖徳太子)摂政に
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600 遣隋使(けんずいし)とは、推古朝の倭国(俀國)が技術や制度を学ぶために隋に派遣した朝貢使のことをいう。600年(推古8年)~618年(推古26年)の18年間に5回以上派遣されている。
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603 官位十二階を制定
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七支刀
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606 日本書紀に推古天皇14年(606年)聖徳太子が勝鬘経・法華経を講じたという記事
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613 『三経義疏』(さんぎょうぎしょ)は、聖徳太子によって著されたとされる『法華義疏』(伝 推古天皇23年(615年))・『勝鬘経義疏』(伝 推古天皇19年(611年))・『維摩経義疏』(伝 推古天皇21年(613年))の総称である。それぞれ『法華経』・『勝鬘経』・『維摩経』の三経の注釈書(義疏・注疏)である。
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645 乙巳の変
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『法華義疏』のみ聖徳太子真筆の草稿とされるものが残存
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『維摩経義疏』もやはり梁の吉蔵(549年 - 623年)の『維摩経義疏』や敦煌出土の『維摩経義記』と類似しており、僧肇(384年 - 414年?)の『註維摩詰経』や智蔵(458年 - 522年)の説を論じている。
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694 藤原京遷都
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720 完成『日本書紀』には七枝刀(ななつさやのたち)との記述
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